有名カメラマン

知っているだけでドヤれる有名カメラマンのエピソード15選

日本で有名なカメラマンと言えば、最初に誰を想像しますか?

写真にそこまで深い関心がない人でも知っている誰もが知っているメジャー実力派もいれば、本当の写真好きしか知らないマイナーだけど実力派の人もいます。

今回は知っているだけでドヤれる有名カメラマンのエピソードを紹介していきます。

とは言っても、名前を知っているだけではドヤれません。
一人一人のストーリーをほんの一部だけ紹介していきますので、興味を持ったらぜひご自身でも調べてみてください。

今回は日本人に限定して紹介していきますが、既に知っているという人もいるかも知れませんし、名前だけ知っている、全く知らなかったと、色々な人が登場してくるかと思います。

それぞれが独自の世界観を持つ魅力的なカメラマンばかりなので、ぜひこの記事をきっかけに日本人カメラマンについて知り、より写真を楽しんでもらえたらと思います。

(一言でカメラマンと言うと、言葉の意味としては動画撮影者も含まれてしまう為、本文中では写真家と表現させていただきます。)

知っているだけでドヤれる有名カメラマン15人をご紹介します

森山大道(もりやまだいどう)

1938年 大阪府池田市出身。

代表作がこちらの「三沢の犬」。

彼の名前を知らなくてもこの作品を見たことがあるという人は多いのではないでしょうか。
この写真以外でも、彼の作品は有名アパレルブランドであるユニクロやBEAMSのTシャツデザインに起用されています。

森山は、ドイツ写真家協会賞など複数の賞を国内外で受賞した経歴を持つ日本を代表する写真家として、60年以上活動をしています。

彼は夜間高校に入学しますが中退、その後、フリーのデザイナーとしてデザイン事務所を設立します。
写真家として活躍することを望み1961年に上京し、フリーの写真家としてだけでなく広告や雑誌のデザインも手掛けてきました。
現在は東京工芸大学・京都造形芸術大学の客員教授として教育にも携わっています。

森山の作風は「アレ・ブレ・ボケ」
普通の写真家であれば、これらは失敗作と考えるでしょう。
しかし、彼はこれらを自分の表現手段として確立させています。

また森山はカメラそのものにはこだわりを持たず、ずっとコンパクトカメラを使っています。
プロの写真家は当然最高の機能を持ったカメラで撮影をしているものだと誰もが考えますが、これは非常に驚きです。

インビューで彼は
「もうずっとコンパクトカメラを使ってるけど、それがなくても撮りたかったら、どんなカメラでもいいから目の前にあるカメラで撮ります、たとえばそれが「写ルンです」でもポラロイドでも大型カメラでも 。」
と、話しています。
また、「僕は街頭スナップ写真家だ」と自身をそう語っています。
撮りたいものがあれば、その場にあるどんなカメラでも撮影するのが彼のやり方のようです。

https://www.moriyamadaido.com/

蜷川実花(にながわみか)

1972年 東京都東久留米市出身。

多摩美術大学卒業。
その作風は非常に独特で、幻想的であり人々の目を惹く色彩美に世界中の多くの人が魅了されました。

2000年に“写真界の芥川賞”とも呼ばれる木村伊兵衛写真賞を受賞。

2007年、映画『さくらん』(第57回ベルリン国際映画祭、第31回香港国際映画祭に特別招待作品として正式出品)で監督デビューを果たしました。
2012年、映画『ヘルタースケルター』(新藤兼人賞銀賞受賞)2019年『Diner ダイナー』とこれまでに3本の映画を世に送り出しています。
映画の中でも「蜷川実花の世界観」はしっかりと表現されており、写真・映画関係なく、どの作品も「あ、これ蜷川さんの作品だよね?」と誰もが分かるくらいにオリジナリティーがあります。

しかし、それだけ強い個性を放っていると、批判されることも多くあるそうです。
蜷川もこれまでに「こんなのは写真じゃない」と多くの批判の声を浴びてきました。

しかし彼女は「表現を仕事にしている以上、批判は絶対にあるもの」と受け入れ、
「自分の作品を好きだと言ってくれる人たちの為にも、自分のあり方は曲げずにこれからも写真を撮り続ける」
「人の目を気にして何かを諦めるのはやめましょう」と強いメッセージを残しています。

https://mikaninagawa.com

荒木経惟(あらきのぶよし)

1940年 東京都台東区出身。

荒木氏は「アラーキー」の愛称で親しまれた写真家ですが、名前は聞いたことがあるという方も多いのではないでしょうか。

アラーキーは生/性(エロス)と死(タナトス)、そして無常観を主題に作品を発表し続けるということで、
「ああ、あのエロいカメラマンでしょ?」という感じで、ヌード写真のイメージが強いかも知れませんが、
風景やスナップ写真も非常に素晴らしく世界的にも評価されている日本を代表する写真家の一人です。

アマチュア写真家でもあった父の影響で写真を撮り始めたアラーキーですが、
千葉大学在学中撮影した『さっちん』が雑誌『太陽』が主催する太陽賞に受賞します。

大学卒業後は電通の宣伝用カメラマンとして就職しましたが、退社後にフリーカメラマンとなりました。

大学在学中に既に『日本カメラ』等の雑誌で入選するなど、カメラマンとして有名だった彼には複数の新聞社からも誘いがあったそうですが、
「報道カメラマンは好き勝手な撮影ができない」という理由と、大学の先輩から「電通なら遊んでられる」と誘いがあり電通に入社したというエピソードがあります。

彼は電通時代に最愛の妻 陽子と出会い、陽子との夫婦生活を綴った写真集を数多く出版しています。
当時は写真家が自身のプライベートを撮影した写真集を出すというのは非常に珍しいことでした。

その後、長年連れ添った妻・陽子は病に倒れ1990年に逝去。
当時、アラーキーが、最愛の妻の亡くなった姿も撮影したということで話題になりましたが、彼は最後まで妻の姿を撮り続けたのです。

http://www.arakinobuyoshi.com/

ハービー・山口(はーびーやまぐち)

1950年 東京都大田区出身。

ハービー・山口は「音楽好きであれば、この人は外せないだろう」という写真家ではないでしょうか。
特にイギリス文化が好きであればぜひ知っていただきたい写真家です。

彼は中学2年生の時に写真部に入り、写真を始めます。
大学卒業後に渡英して約10年をロンドンで過ごしますが、デビュー前のボーイ・ジョージと共同生活を送るなど、ロンドンが最も熱く沸いていた時代を経験し、そんな中で撮影されたロンドンの写真が高く評価されています。

帰国後、彼は数多くの日本人アーティストのCDジャケットを手掛けています。
福山雅治を撮影した写真集が非常に有名です。

そんな山口ですが、海外に出たきっかけは、就職活動の失敗でした。
元々音楽好きだった為に、ビートルズが生まれたロンドンに興味を持ち、渡英します。

社会のレールからドロップアウトしてしまった自分はアウトローな人間だと思っていた山口ですが、
ロンドンで出会った人たちから「写真家になりたいなんて、いい夢だね!」と応援してもらったことを機に、
一つのレールから外れてしまっても別のレールがあると自信を持ち、写真家として成功への道を歩み始めたのです。

2011年度日本写真協会賞作家賞。
現在は大阪芸術大学客員教授および九州産業大学客員教授を務めています。

 

http://www.herbie-yamaguchi.com/

篠山紀信(しのやまきしん)

1940年 東京都新宿区出身。

先に紹介したアラーキーと同じく、篠山紀信に対してもヌード写真家のイメージを持つ方が多いかも知れません。
実際に人物を「激写」した作品も多くあります。
しかし都市や建築に絡む作品も彼は数多く手掛けているのです。

彼はこれまでに紹介した写真家と違い、元々写真が好きというわけではありませんでした。

しかし、一般大学の受験に失敗した際に、
出願して入学したのが日本大学芸術学部写真学科であった為、写真学科に入ったからには写真家になろうと決意して、併行して東京綜合写真専門学校でも学んだのです。
在学中から頭角を現し、専門学校卒業後、日大在学中の1961年に、広告写真家協会展APA賞を受賞し、
その後ライトパブリシティに就職します。

初期の作品から傑作が多く、彼の作品数の多さ、ジャンルの多様さは他の写真家を遥かに凌ぎます。

ジョン・レノンの生前のラストアルバム『ダブル・ファンタジー』のジャケット撮影をしたことも有名です。

1975年の山口百恵の撮影の際に使い始めた「激写」という言葉は流行語となりました。

女性を被写体としたヌード写真を数多く撮影し、1991年には、当時のトップアイドルだった宮沢りえのヌード写真集「Santa Fe」を出します。この写真集の新聞の全面広告がきっかけで、ヘアヌードブームが巻き起こりました。

建築に関しては、北海道から沖縄までの日本列島にある日本の家を記録した大判写真集「家」が1975年に出版されています。
古民家や古銭湯、有名人の邸宅、アパート、炭鉱、廃墟の写真など撮影された建築物は多岐に渡ります。

2020年10月13日、第68回菊池寛賞を受賞。

野村佐紀子(のむらさきこ)

1967年 山口県下関市出身。

男性のヌード写真を撮ることで有名な野村は、
九州産業大学芸術学部写真学科卒業後、写真家・荒木経惟の唯一人の愛弟子として活動し、
93年より本格的に数多くの作品を発表するようになりました。

野村は元々、映像の方に興味があった為、大学の学部選びにもかなり迷い最終的に写真学科を選んだそうです。
彼女の作品は主にモノクロの男性ヌードですが、それは大学時代に「お前、男性ヌードを撮ってこいよ」と先輩に言われたことが始まりだと、インタビュー記事でそのように述べています。

写真学科であれば、当然写真家になると決めていた彼女でしたが、実際に求人を探すと、印刷会社や編集者といった「写真に関係ある仕事」ばかりで、写真家の求人はありませんでした。
途方に暮れていたところ、たまたま喫茶店で隣に座った人と話をしたことがきっかけで、スタジオにて修行をすることになりました。

1年スタジオで修行した後、写真家を目指す彼女に、今度は「生活していく」という現実が迫ってきました。
そこで、彼女は自分が目指す方向性に近い写真家に弟子入りすることを考えたのです。
その時に「誰か」と考えたら「荒木経惟」の他にはいないと、荒木氏の個展に自分の写真ブックを持って会いに行ったというエピソードがあります。
それをきっかけに荒木氏の弟子となりそれから18年が経過しました。

野村は東京を中心にヨーロッパ、アジアなどでも精力的に個展グループ展を行なっています。

2018年1月に十代目松本幸四郎を襲名した七代目市川染五郎を約17年にわたってモノクロで撮影した「残夢」が有名です。

2017年、東川賞新人作家賞受賞。

http://sakikonomura.com/news

インベカヲリ★(いんべかをり)

1980年 東京都出身。

インベは短大卒業後に、編集プロダクションに勤務するも僅か8ヶ月ほどで退職し、独学で写真を始めます。
2000年頃から市井に生きる女性たちの人生を聞き取りしながらのポートレイトを撮り始め、アルバイト、映像制作会社勤務を経て2006年にフリーとして活動を始めます。

文筆家でもある彼女は「新潮45」で執筆も行っています。

これまでの受賞・候補歴はこの通りです。
2005年 日本広告写真協会/APA公募展
2005年 エプソン・カラーイメージングコンテスト
2008年 ニコンサロン三木淳賞受賞奨励賞
2013年 第一写真集『やっぱ月帰るわ、私。』で第39回木村伊兵衛写真賞候補
2018年 第43回伊奈信男賞
2019年 日本写真協会新人賞

驚くべき点は彼女がこれまで紹介したどの写真家よりもカメラを手にした年齢が遅く、独学であったにも関わらずこれだけの受賞や候補歴があるということです。

インベがカメラを始めた頃、自身のHPに載せられているのはセルフポートレイトがメインでした。
しかし、すぐにモデルを募るようになります。

応募してきた人の話を聞き、撮影を行いWebに掲載するというスタイルはすぐに確立されました。
公式HPにも掲載されていますが、彼女は現在も女性のモデルを募集しています。

これまで数多くの少女や女性たちを撮影してきました。
彼女の撮影する写真はエキセントリックな世界観が魅力であると人気があり、彼女の被写体になりたいという応募はひっきりなしに来るそうです。

インベ自身、被写体と自分の中に共通点を見出していると話していました。

彼女の写真がエキセントリックな表現になるのは、被写体との共同作業の結果かもしれません。
(インタビューでは被写体との不思議な連帯感と書かれていました)

数多くの女性の人生を聞き取り、ポートレイトを撮り続けてきた彼女だからこそ、被写体の表の部分だけではなく、内面までも写真という形に収められるのかもしれません。

http://www.inbekawori.com/

奥山由之(おくやまよしゆき)

1991年 東京都出身。

奥山由之は日本の若手の中でも注目されている写真家の一人だと言えるのではないでしょうか。

2011年、20歳の時に自身初の写真集「Girl」を発表、これが写真界の登竜門『写真新世紀』の優秀賞を受賞します。
その後、2016年、第47回講談社出版文化賞写真賞受賞と、20代で早くも注目される写真家となったのです。

幼少期はサッカー少年だった奥山ですが、
中学生の時にクレイ・アニメーションの映画を見た事がきっかけで自身も同じくクレイ・アニメーション制作を始めます。
クレイ・アニメーションとは、粘土で作られたキャラクターを少しずつ動かし、一コマ一コマ写真撮影をしてそれを何万枚も繋げてアニメーションにするというものです。
気が遠くなるような作業ですが、奥山はそのようなアナログとデジタルが融合した世界に強く惹かれ夢中になって取り組みました。

奥山が写真と出会ったのは大学生の時です。
当時は内向的な性格ゆえに異性ともまともに話せないということで選んだ写真部でしたが、
2011年の東日本大震災をきっかけに、自分が生きた証を何かの形で残したいと考え、
自分の言葉にできない感情を具現化したいという気持ちとともに最初の写真集「Girl」が作られました。

彼にとって写真はビジュアル表現ではなく、「人に何かを伝える」ためのもの「人と何かを共有する」ための術だと捉えています。

そんな奥山は写真家として数多くの広告写真・CDジャケット・アーティスト写真を手掛けています。
また自身の映像制作の技術も活かして近年では、TVCM・MV・映画などの監督業でも活躍中です。

https://y-okuyama.com/

HIROMIX(ひろみっくす)

1976年 東京都杉並区出身。

高校在学中に女子高生写真家として注目され、蜷川実花とともに、1990年代のガーリーフォトブームの火付け役となりました。
それまで写真というのは「男性の趣味」であり、カメラそのものも機械だから女性には扱いが難しいというイメージがありました。
しかし時代の流れとともに操作が簡単で軽量なコンパクトカメラが普及して女性でも気軽に扱えるようになったのです。
そしてこのガーリーフォトブームが後押しして「女子が写真を撮る」ということが一般化しました。
そのような意味で、まさにHIROMIXは女性写真家にとってパイオニア的な存在なのです。

そんな彼女が写真家への道を歩み始めたきっかけは、高校生時代に荒木経惟の写真撮影に被写体として参加し、その時にアシスタントをしていたホンマタカシと知り合ったことでした。
自身が撮りためた写真見たホンマから写真新世紀への応募を薦められ、応募した写真新世紀で1995年に最年少でグランプリを受賞して脚光を浴びます。
以降、雑誌「Olive」、「ロッキング・オン・ジャパン」、「H」等で多数撮影の実績があります。

1998年に世界32ヶ国同時発売した写真集「HIROMIX」などの活躍で、ドイツ・コダックフォトプライズ受賞。
2001年に長島有里枝、蜷川実花とともに、第26回木村伊兵衛写真賞を史上最年少で受賞。

2003年には
映画「ロスト・イン・トランスレーション」(ソフィア・コッポラ監督作品2004年アカデミー脚本賞受賞)
に本人役でカメオ出演しています。

仏リベラシオン誌「世界の50人の女性クリエイター」の1人にも選ばれています。

今では女性写真家も珍しくなくなりましたが、20年程前には写真はまだまだ男性だけの世界だったのです。
そんな写真文化で革命を起こしたという彼女についてもっともっと知ってみると面白いかもしれませんね。

川島小鳥(かわしまことり)

1980年 東京都出身。

小鳥という名前ですが、男性写真家です。

このおかっぱ頭の女の子の写真は見覚えのある人も多いかもしれません。
佐渡島で暮らす3歳の女の子を約1年かけて捉えた写真集『未来ちゃん』は2011年に発売され、瞬く間に約12万部と大ヒットしました。
雑誌「BRUTUS」の表紙にも起用され、川島はこの作品で第42回講談社出版文化賞写真賞を受賞します。

そんな川島ですが、高校時代の夢は映画監督でした。
その為の練習として写真撮影を行なっていましたが、グループで撮影活動を行なっているうちに、集団行動が苦手である自分に気付き、それからは一人でも活動できる写真の方にのめり込んでいきます。

早稲田大学卒業後は写真スタジオ、街の写真屋で働き、大学時代に撮り溜めしていた女の子を被写体にした写真を一冊の本にして写真賞に応募したところ大賞を受賞します。
(「BABY BABY」2006年第10回新風舎・平間至写真賞大賞)

川島は写真家・沼田元氣に師事していました。
「沼田さんは、写真家としてのオリジナリティーの出し方が素晴らしく、昔からファンでした。そんな沼田さんから『写真の魅力は被写体が8割、撮影者の力量なんてたかが知れている。謙虚な気持ちが大切だ』と教わりました」と語っています。

2014年には台湾に3年通って撮影した「明星」で第40回木村伊兵衛写真賞を受賞します。

川島は、もしも写真家になっていなかったら、生きづらさを感じてきっと何もしていなかったと思うと話していました。
「カメラがあるから僕は人や社会とつながっていられる。そんなカメラに支えられ、見る人の心を少しでも動かせる写真を撮っていきたい」
インタビューでそう笑顔で答えています。

https://www.kawashimakotori.com/

沢田教一(さわだきょういち)

1936年-1970年 青森県青森市出身。

ここから先は報道写真家を何人か紹介したいと思います。
報道写真家と言えば、この人を欠かすことはできないでしょう。

ベトナム戦争下の民衆に焦点を当てた「安全への逃避」
沢田はこの写真で、ハーグ第9回世界報道写真大賞、アメリカ海外記者クラブ賞、ピューリッツァー賞(※1)を受賞しました。
(※1 アメリカのジャーナリズムにおいて、ピューリッツァー賞ほど栄誉ある賞はないとも言われています。)

沢田がカメラと出会ったのは、13歳の頃でした。
当時は戦前。
日本がまだ貧しかった頃ですが、沢田は新聞配達のアルバイトをして600円のボックスカメラを購入しました。
その後、中学時代の英語教師から新品のミノルタ製のカメラを譲り受け、写真技術の手ほどきを受けます。

高校卒業後に写真店でアルバイトをしながら写真技術を習得してき、1961年にUPI通信社(アメリカの通信社)に就職しジャーナリストとなります。

沢田はベトナム戦争が激化すると現地の取材を強く希望しましたが、受け入れてもらえなかった為、1ヶ月の休暇を取って自費でベトナムへ取材に向かいました。
「安全への逃避」が新聞に掲載され、ピューリッツァー賞を勝ち取った事で沢田の名前は一躍知れ渡ります。
受賞後も沢田はベトナムに渡り、戦争によって住む場所や仕事を失った人々の支援活動も行っていました。
しかし1970年カンボジアの取材中に襲撃を受け帰らぬ人となります。

撮影の為に、地雷原に踏み込んだり、攻撃下にある川の土手まで登ったりと、命知らずのカメラマンとして有名だった沢田は、命懸けでベトナム戦争の悲惨な現状を写真という形で世界中に知らしめたのです。

土門拳(どもんけん)

1909年-1990年 山形県酒田市出身。

土門拳は戦後の日本の写真界で屈指の名文家としても知られてきました。

「実物がそこにあるから、実物をもう何度も見ているから、写真はいらないと云われる写真では、情けない。
実物がそこにあっても、実物を何度見ていても、実物以上に実物であり、
何度も見た以上に見せてくれる写真が、本物の写真というものである。」(本人の言葉より)

このように土門は徹底したリアリズムにこだわりを持った報道写真家として有名でした。

それ以外にも寺院仏像などの伝統文化の写真を多く残しています。
また数多くの子供たちを撮影してきました。

当時はまだ今ほどカメラそのものの撮影機能も発達しておらず、撮影にはより技術が求められていましたが、土門の作品は、カメラの性能が上がり誰もが綺麗な写真を撮影できるようなった今でも多くの人が息を飲むほどの、肉眼を超えた世界が表現されています。
土門は『絶対非演出の絶対スナップ』という独自のリアリズム論で戦後の写真界をリードしてきました。

土門は山形県で生まれますが、小学校入学前に東京に移住します。
10代の頃は考古学に興味を持ち土器・石器掘りに夢中になります。
後に三味線にも魅了され常盤津の師匠に弟子入りしたというエピソードがあります。
24歳の時に、遠縁の写真家の元に内弟子として住み込み学び始めたところから彼の写真家としての人生がスタートします。
その2年後、電車内で大あくびをする幼い兄弟を撮影したスナップ写真「アーアー」が「アサヒカメラ」10月号で月例第一部(初心者)二等に初入選します。
またその号に出ていた名取洋之助主宰の第2次日本工房の求人広告に応募し、名取の下で報道写真を撮り始めるのです。

当時、土門が追求する「社会的リアリズム」に対しては多くの誤解や非難の声もありました。
彼のリアリズムは時にただのスナップ写真と解釈されることもありました。
また、当時の社会の底辺と言われる人々にカメラを向けていた土門の写真について乞食写真との批判の声もありました。

土門は1979年脳血栓を発症し昏睡状態になり、1990年11年間の昏睡状態を経て心不全の為東京の病院で死去します。

土門は生前に7万点の全作品を故郷山形県酒田市に寄贈しています。
それに応え、酒田市は1983年に土門拳記念館を開設しました。1人の写真家をテーマにした写真館は日本初で世界的にも珍しいと言われています。

2009年には旅行ガイドブックとして世界的に権威のある『ミシュラン・グリーンガイド・ジャポン』で二つ星に認定されています。

三木淳(みきじゅん)

 

1919年-1992年 岡山県倉敷市出身。

三木淳と言えば、ご存知の方は1951年「LIFE」の表紙になった葉巻をくわえた吉田茂首相の写真を最初に思い浮かべる人も多いかもしれません。

三木は「LIFE」(米タイム・ライフ社発行)の日本人で唯一の正規スタッフ写真家として活動しました。
退社後は、フリーランスの報道写真家として活躍し、数多くの受賞歴を持ち、晩年はアマチュア写真界の発展に大きく貢献しました。

三木は、青年期に「LIFE」の表紙に掲載されたマーガレット・バーク・ホワイトの写真と、土門拳が撮影した「傘を回す子供」の写真に感銘を受け、写真家を志すようになります。

中学時代に通学途中にあった東郷カメラ(東郷堂写真工業株式会社製)を扱う写真店にて、
店頭で写真の現像の仕方を実演しているのを見た際、難しい暗室での作業をすることなく、
明るい場所で赤い液と青い液に浸すとフィルムの映像が出たことに衝撃を受け、
小遣いを貯めて3円50銭の東郷カメラを購入したというエピソードがあります。

後に土門拳に師事し写真を学びます。

シベリア抑留されていた日本人が帰還する撮影した「日本の“赤色部隊”祖国に帰る」が『ライフ』の巻頭特集に掲載されたのを機に、『ライフ』の正規スタッフ写真家となります。

53歳で脳腫瘍を患い、治癒後は若手の育成に力を注いでいきます。

また、写真美術館の設立や写真家の地位向上に尽力し、没後は若手写真家の活動支援を目的とした「三木淳賞」がニコンイメージングジャパンより設立されています。

笹本恒子(ささもとつねこ

1914年 東京都品川区出身。

笹本は2021年8月現在で106歳、9月で107歳になります。
昭和15年(1940年)に写真協会の創設者の林謙一の後押しで日本初の女性報道写真家となりました。
戦後にフリーのフォトジャーナリストとなり活動してきました。

彼女が写真家になった時、これから戦争が激しくなっていくという時代でした。
彼女は戦中の「日独伊三国同盟婦人祝賀会」、「ヒットラーユーゲント(ヒットラー青年団)来日」、戦後の「マッカーサー元帥夫妻」や「三井三池争議」、「安保闘争」など、激動時代の歴史的場面や、時の人を女性ならではの目線で写真に収めてきました。

笹本は元々絵の勉強をしており、東京日日新聞(現:毎日新聞)の挿絵のアルバイトで社会面のカットで活動していましたが、笹本の実家の離れを借りて住んでいた東京日日新聞・社会部長の小坂の勧めで財団法人写真協会に入りました。

1950年には日本写真家協会の創立会員となります(2011年現在名誉会員)が、その後諸事情で活動を約20年休止します。
1985年71歳で国内を代表する著名な女性有名人を集めた写真展「昭和史を彩った人たち」で再び写真家として復帰します。

驚いたことに笹本は96歳まで年齢を明かさずに活動してきたのです。
年齢を明かすと「この人に写真を撮れるのか」と信用してもらえないと考えたそうです。
年齢を明かさないことは、ずっと現役でいるための”自分への約束事”だったのです。

笹本は100歳まで都内のマンションで1人暮らしをしてきましたが自宅で転倒し、大腿骨と腕を骨折する大怪我を負ってしまいました。
そのため、現在は鎌倉の施設でリハビリを続けています。
「自由に歩けるようになって写真を撮りたい」と週3回のリハビリに励み、今では車いすからさっと立てるまでに筋肉が回復してきたそうです。
「いくつになっても筋肉は蘇るのね。目標があるからがんばれます。」

激動の日本を写真に収めてきた日本人初の女性報道写真家は100歳を超えた今もエネルギーに満ち溢れています。

    

千葉康由(ちばやすよし)

1971年 大分県佐伯市出身。

昨年(2020年)世界報道写真コンテストで日本人報道写真家・千葉康由の作品が大賞に選ばれました。
受賞作「Straight Voice(まっすぐな声)」は2019年6月3日にスーダンで起きた治安部隊による反政府デモへの弾圧について政府への抗議を込めた詩を歌う少年たちを写した1枚です。

このコンテストで日本人写真家が大賞を受賞するのは41年ぶり4人目となります。

この写真について、コンテストの審査員は
「若者たちの力、芸術の持つ力、そして希望を力強く示した一枚」
「とても静かで美しい写真だが、変化を望む世界中の人々の不安を代弁している」
ととても評価しています。

千葉は映像制作を学ぶ予定で武蔵野美術大学映像学科に入学しました。
しかし、授業で写真の講義を選択して写真に多く触れているうちに写真に強く惹かれるようになります。
当時の気持ちを千葉は「写真はミニマルな動画だと意識するようになった。」と語っています。

卒業後、95年に朝日新聞社に入社し、写真記者として活躍します。
2007年に同社を退職し、もっと知らないものを見たいという想いから、妻が仕事で赴任することになったケニアに行くことにします。そこからフリーの写真家としての活動が始まるのです。

報道写真家として転機が訪れたのは同年の12月のことでした。
ケニアでは大統領選をめぐる暴動が起き、それが建国以来の国内紛争まで発展したのです。
報道写真家として現場で写真を撮り続ける中で千葉は多くの報道カメラマンと出会います。
そして一人一人所属を聞いて回ったところ、一社だけ取材に来ていない会社があったのを知ったのです。
千葉は早速そこに自分の写真を売り込みに行きました。

その売り込み先が、現在千葉が所属しているAFP通信だったのです。

11年にAFP通信のスタッフフォトグラファーとなった千葉はブラジル・サンパウロ支局、リオデジャネイロ支局を経て17年に再びケニアに戻り、現在は同通信社ナイロビ支局チーフフォトグラファーとして活動を続けています。

千葉は2016年に障害のある男性を撮影した「世界を反対に見る男」で米国の第73回国際写真賞(POY, Pictures of the Year International)のポートレート(肖像写真)部門の1位を受賞しています。

以上、15名の写真家を紹介してきました。
いかがでしたでしょうか?

それぞれ個性があり、独自の世界やあり方を大切にしている写真家ばかりです。

今回紹介した一人一人のエピソードは本当にごく一部のものです。
興味を持たれた写真家についてぜひ色々と調べてみてください。
さらに素晴らしい作品に出会うことができるでしょう。